富士見台高原

富士見台高原 ~リベンジは極寒の中~

唯一の三角点

  

南沢山から先は夏に途中まで歩いたけど、今回は笹も落ち着いているだろう。案の定、行く手には笹原の中にはっきりと広い踏み跡が続いている。しかし先にはガスが下りてきているのか、霞んで見える。

  

笹を越えて下界を見てみると、日が照っているようだ。天気予報は晴れと間違いではなかったけど、この標高から上はガスの中ということか。
しかも冷たい風が吹く中、気温も一気に下がってきた。足元の草や苔には霜が付いている。こんな中をアップダウンを繰り返しながら標高を上げて富士見台高原へとひたすら歩いていくんだな。

富士見台高原

南沢山から富士見台高原へと出発。

富士見台高原

いいね~。広い踏み跡が続いているよ。

  
富士見台高原

行く手の山にはガスが掛かってきた。

富士見台高原

何と下界は日が照っている。この辺りはガスの中なのか。

  
富士見台高原

ここからはアップダウンを繰り返す。まだ雪が積もっていないだけマシだ。前回の上谷山~鏡山を思えば整備された登山道じゃないか。

富士見台高原

寒いはずだ。足元には霜。

富士見台高原

なんか見てるだけで体が冷えてくる。

  
富士見台高原

よくよく見ると笹は刈り取られている。

富士見台高原

笹原の中に続く道。天気が良ければ気持ちのいい縦走だ。

  
富士見台高原

う~それにしても寒い。

富士見台高原

頑張って登る。ピークに到達したようだ。

鉛色の空の下、聞こえるのは風の音だけ。そんな中を一人ひたすら歩いている。そうだよね。平日の寒くて天気が悪い日に好んで山に登る人なんてあまりいないか。
まるで木村さんと登った極寒の川上岳を思い出す。でも無理はしない。あまりに寒いようだったら途中で引き返せばいいしね。


  

到達したピークは三角点のある横川山だった。もっと時間がかかると思ったけど、意外にあっさりと着いた。しかし辺りを見渡してみても何も見えない。登山口を出発して約2時間。ちょっと写真を撮ってまた歩き続ける。なんといっても立ち止まると一気に体が冷えるもんね。

  
富士見台高原

ルートの途中にある名もないピークのような横川山山頂。標識の下に何か説明文が付けてある。写真を撮って改めて自宅で読むことにしよう。書かれているのは山名の由来だった。以下↓を参照してね。

富士見台高原

ルート上で唯一の二等三角点。点名はそのまま「横川山」。

富士見台高原

寒くてちょっと読む気にならない。


  

山名の由来
国土地理院の2万5千分の1地形図では、長野・岐阜県境稜線の南沢山(1,564m)、富士見台(1,739m)の間にあるこの山には、三角点記号と標高1,620.3mが記されるのみで、山名は記載されていません。
この山を、稜線東側の伊那谷では、横川川が流れ出ることから「横川山」、西側の木曽谷では、湯舟沢川が流れ出ることから「湯舟沢山」と呼んできました。
二等三角点基準点名は「横川山」で、伊那谷の阿智村には横川の集落があります。この山の南の1,578mピーク南寄りの鞍部には「横川の名水」が流れ出ます。
一方、木曽谷の中津川市神坂地区には、江戸時代湯舟沢村がありました(注)。湯舟沢の上流は、温(ぬるま)川と冷川に分かれ、温川上流には槽(おけ)の形をした岩があり、天照大神が産湯を使った場所と伝わります(宝暦7年松平君山著『吉蘇志略』)。ちなみに天照大神の胞衣(えな:へその緒)を埋めたと伝わるのが恵那山です(伊那側の呼称は「野熊山」)。湯舟沢山は伊勢神宮遷宮の神木を伐り出した木曽ヒノキの産地として知られましたが、当時はピークのみを指していたのではなく、重要な林産地であるこの一帯を指す呼称でした(所三男著『近世林業史の研究』)。
(注:江戸時代流域一帯は信濃国湯舟沢村として尾張藩の領地(律令制の時代は美濃国)で、1958年越県合併をして中津川市神坂地区となりました。)
最近google mapや、これを引用したGPSで1,578mピークを湯舟沢山としているものが見られ、この1,620mピークを、長野県側では「横川山」、岐阜県側では「湯舟沢山」と呼んでいるのです。(清水克宏 記)


  1. 地図
  2. 1
  3. 2
  4. 3
  5. 4
  6. 5
  7. 6

このページの上に戻る