網掛山

網掛山 ~晩秋の古き道~

古代の官道

  
網掛山

網掛山登山道入口の看板。ここを登山口としよう。

いつの間にか舗装は切れ、獣害防止柵を超えるとすぐに網掛山登山道入り口の看板が現れた。実質ここが登山口なのだろう。平坦な道は山の中に延々と続いている。途中で古びた指導標が現れた。網掛峠まで1.1km。まずは最初の目的地は網掛峠だ。今日は峠から山頂へと向かい、北回りのルートで下りていく。

しばらく道なりに歩いていくと、ちょっとした広場になった。まるで林道の終点のようだ。そしてその先に細い道が続いている。もしかしたらここが登山口? 
まあいいや。ここが網掛山に通じる登山道であることは間違いない。

  
網掛山

古びた指導標。古代東山道と書かれている。

網掛山

この先、網掛峠まで1.1km。

網掛山

広場になって行き止まり? といったところだが、細い踏み跡が先に続いている。これが網掛山登山道だ。ようやく登山らしくなってきた。

  
網掛山

ここにも古代東山道の標識。

網掛山

道は狭いがそこそこ歩きやすい。

網掛山

先週に引き続きマムシグサ。

  
網掛山

途中からジグザグに登り、高度を上げていく。

網掛山

古代東山道の順路はこの看板を見れば迷うことはない。


  
網掛山

間もなく網掛峠に到着した。由緒ある峠の割りにはひっそりとしていて通り道のような峠だ。

網掛山

ここにも網掛峠の説明看板が立っている。中身は以下を読んでね。
網掛峠は四差路になっており、先に見える小さな展望台から続くのが網掛山登山道だ。今にも壊れそうな展望台に立ってみるが、景色はさほど良くはない。
まだ山に入って序盤なので、休憩すること無く山頂を目指す。

  

網掛峠
この網掛峠は、標高九七一メートル、古代の官道「東山道」の経路にあたり、当時は神坂峠(国史跡)と一括して「信濃坂」といわれた難所であったが、同時に都から信濃国へ入る玄関口でもあった。
この峠を越えて通った古代人の中には、日本武尊、信濃及び東国の防人、伝教大師、坂上田村麻呂等が古典に記されていて、中央からの公の使や地方官、文物なども、この峠を越えて入来し、東山道諸国からの租税や徴用人馬もすべてこの峠を越えて往来した。
この峠には「蛇瘤杉」という杉の大木があって峠の象徴となっていたが、昭和二十八年十月老衰を理由に伐り倒された。現在もその切株と「蛇瘤杉」の石碑が残っているが、この杉には次の伝説がある。
近江の国琵琶湖畔の村の若い男女が、村人のねたみから村を追い出され、旅をかさねてこの峠まで来たとき、疲れと飢えのために産んだばかりの赤児とともに絶命した。村人は哀れんで三人をここに葬り、墓じるしに杉の木を植えたところ、杉の木はたちまちに成長して幹が三つにわかれ数個の瘤をもつ大樹となった。そのころ、琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信濃路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀ったところ、湖はもとの静けさをとりもどしたという。若者夫婦の持って来た網が木に掛けられていたことから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は天正四年伏谷社境内に移された。
この峠は、神坂峠と同じように古代の旅人が旅の平安を祈る峠神祭祀の場所であったと思われ、ナギ鎌や灰釉陶器片の出土が伝えられているが、東麓にあたる大垣外からは石製模造品が三百数十個も出土していて、この峠との関わりを暗示させる。なお、この峠から西方約四〇〇ヘクタールの広大な山地は「オオサンドウ」といわれ、古代東山道のルートを伝承する地名として注目されている。


  
網掛山

この峠は分岐点。東山道方面は謂れのある蛇瘤杉へと続く。左上には展望台が見えている。

網掛山

東山道はこの先、殿島まで3.4kmと続いているらしい。

網掛山

ちょっと展望台に寄っていこう。

  
網掛山

今にも倒壊しそうだけど大丈夫?

網掛山

あまり景色は良くないね。

網掛山

改めて山頂に向けて出発。


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